2021.01.18 の日記:劇場版 キョウザメの卵

パラドックスのやつを振り返るやつです.

=== 2101.01.01 ===

花子「太郎くん.あなたにお年玉をあげましょう」
太郎「ヤッター!」
花子「どうぞ」
太郎「もう今年は1つしかポチ袋を用意してないんだね」
ゴソゴソ(太郎が袋を開ける音)
太郎「( \(5,000\) 円か......)」
花子「太郎くん,今年はね,他に \(1\) 億個のポチ袋を用意してあるの.1つのポチ袋にだけ \(5,000\) 兆円が入っていて,残りの袋には何も入ってないわ.今持ってる \(5,000\) 円を諦めるかわりにこの \(1\) 億個のポチ袋から \(1\) つだけ選んでもいいよ」
太郎「\(1\) 億個......」
花子「期待値は \(1\) 万倍よ.もちろんやるよね?」

これは期待値なんて十分に試行回数大きくないと現実的な意味はないということを言いたかったんだけど,どうですか.ただ単純に期待値が高いならやるって人がいてもおかしくないような気もする.あとは期待値が低くても非現実的な利益を得られる確率が多少なりともあればやるって人もいそう.たまに僕が思考実験(という名の妄想)することとして,「0.99の確率で即死して0.01で不老不死になるボタンがあったら押すかどうか,あるいはどいういう確率なら押すか」という問題があるんだけどめちゃくちゃ迷う.僕は不老不死になりたいので,確率低くても押してしまいそう.即死はめちゃくちゃ嫌だけど不老不死があまりにも魅力的.ただその日の気分によってどれだけ可能性あれば押すかはかなり変わって,去年の春に考えたときはどんなに可能性低くても確率が0でなければ押すという結論だったけど,今日の気分だと 0.01 くらいが押すか押さないかの閾値になる.それを考えると \(5,000\) 兆円に僕にとっての不老不死程度の価値を感じる人なら花子さんの提案を受け入れる可能性は十分ある.

私はいつも「0.99の確率で即死して0.01で不老不死になるボタンがあったら押すかどうか,あるいはどいういう確率なら押すか」とか妄想している恥ずかしい人間です.私を殴れ.ちから一ぱいに頬を殴れ.

===

以下は話半分でよろしく.

期待値の話は新型コロナ対策の考え方にも繋がってくるので,せっかくだし意図的にこの終わり方にした.僕の感覚だが,多くの人(ここで言う多くの人は日本全国民を考えたときの多くの人,僕の周りの人というバイアスはない)が対策の判断をするときには,感染した際の損失や感染対策をする・しない場合の損得について,単純な期待値を考えているわけではない.それらの損得の程度や確率を考えてはいるが,実際の量や確率にかなり強い非線形な補正をかけている.どういうことかというと,感染確率が十分に低いから無視する,とか,感染した場合の損失が十分に大きいから感染確率の低さは考慮に入れない,などと考えるということだ.これは非常に理にかなっている.実際に,サンクトペテルブルクパラドックスという十分に小さい確率で十分に大きい効果が得られる試行についてのパラドックスがあり,その経済学分野での解決策として十分小さい確率を無視したり得られる損得に非線形の補正をかけるという解決策が提案されており,コロナ対策の行動決定にアナロジーが見て取れる.さらに個人ひとりの事象を確率論で扱っていいのかという問題もあり,古典的な頻度主義では否定される(詳しくは主観確率のwiki.).その際に判断基準とされるのはやはり損失そのものの大きさだろう.コテコテの頻度主義者で決定論者ってコロナ対策どうしてるんですか?まとめると,個人の意思決定に重要なのは数学的な確率ではないだろう.

一方で,国あるいは十分大きな組織の判断基準は期待値あるいはそれに近いものだろう.構成する人々の総体をコントロールしなければならないので,判断基準は確率(というか統計)に基づく期待値になる.国にとってポチ袋を選びなおす行為は,個人の場合と比べて合計の期待値は同じだが,確率 \(1-1/e\) で \(5,000\) 兆円以上得られる賭けとなり,現実的な選択となる.国は十分低い確率を無視できないし,毎日の感染者に対する総コストはそこそこの精度で見積もれる.

個人と国の判断基準が違うので感染対策についてはそれぞれの視点で考えるべきで,国の方針を個人の基準だけで批判するのは間違っている.ただ,間違っているのは批判することであって,批判ではなくその前の段階の個人の感想を表明するのは正しいやり方で,そういう個人の感想を集めて総合して初めて批判の根拠となる気がする.そういうのが”理想的な民主主義”なんですかね.理想的な民主主義にダブルクォーテーションがついてるのは理想的な民主主義なんて存在しないから.まあ国が酷い場合は理想的とか言ってる場合じゃないので過激にガンガンやればいいんじゃないですかね.一方で国の基準で考えたときに間違ってたらガンガン批判すればいい.実際は国の基準と個人の基準を同時に考慮しないといけないのでそう簡単ではないが.

見返すとわりと強めの主張をしている気がするけど,「自戒を込めて……」ってやつで,個と全体を分けて考えるのができないのは自己組織化やってる人間として致命的なので,ちゃんとそういう意識を内面化できるようにという意図があるのと,あとこういう視点でコロナ対策を語ってる人を(僕が)あんまり見ないのでとりあえず書いときたいなぁという気持ち.「個と全体を分けて考えましょうよ!」みたいな意図の薄っぺらいツイートをそこそこ有名な人がしたらバズりそうじゃないですか?嫌すぎる.

僕は政治の歴史とか理論とか何も勉強したことがないし,たぶん今後もちゃんとは勉強しないので,間違っているところがあったら誰かちゃんと指摘してほしい.だけど,こういうのは自分で責任を持って学ばないといけないんだよな.それが大人なので…….

こういう文章書いてると楽しい.まさに飲み会の果てという雰囲気.ベロベロになった僕が言ってると思ってください.僕は飲み会ができないフラストレーションを日記で発散している.

あと僕は政治に対する正しい姿勢はどういうものかみたいな問いには興味あるけど,政治そのものには興味がないので,「人民はこうすべきだ!」って主張しつつ自分は全然それに従ってなかったりする.政治に限らず倫理的なこととかでも同じ傾向がある.ごめんなさい.

次回やっと最終回です.

(明日の日記へ続く)