2021.06.02 の日記:僕、ここに眠る

今日は写真を供養する。

今までは、撮ったまま誰にも見られずにストレージに眠っていた写真を引っ張り出してきてコメントを付けて日記にするということをしていた。写真の供養と言いながら、実際にやっていることは忘れ去られていたものを思い出し世の中に再び公開することであり、供養というよりは年忌 (~回忌とか) のようなもの、より強く言うと再生とか復活に近い。

宗教的な儀式の意味を考えたときに、葬式は別れを具体的な儀式として行うことで強制的に気持ちの整理を促すという理由をつけることができるけど、数年ごとに故人を思い偲ぶ年忌はそれ自体にはあまり強い必要性がない気がする。それ自体に意味はなくて、そういった弱い儀式の集合として、宗教が仮定するシステムに現実味を帯びさせる効果があるのかもしれない。その場合はシステムによっては逆に年忌を行うことに意味を見出しづらい、あるいは行うと矛盾が生じることがある (例えば死後に魂が完全に消滅するという仮定のもとでは少なくとも年忌に宗教的な意味を持たせることができない) ので、年忌というものは宗教間で普遍的ではないのかもしれない。ちゃんと調べたわけではないけど、キリスト教は年忌のようなものがあって、イスラム教にはないらしい。

宗教の発生に興味がある。最初は自然に発生したであろう信仰に人間の意図が加わりひとつの宗教がシステムとして成長していく様子とその普遍性を知りたい。ただし消極的な興味なのでちゃんと調べる気も起きなくて、都合よく詳しい人がいたら教えてほしいくらいの気持ちだが。お客様の中に宗教の発生に詳しい方は……

余談終わり。


今月からGoogleフォトの容量に制限がついたので、写真を何でもかんでも永続的に保存するということができなくなってしまった。課金する予定も他のストレージサービスを使う予定もないので、撮影した写真の中から保存する写真を選別し、残りをいずれ消去しなければならない。これからはそういう写真を端末から完全に消去する前に撮影した証を残す、という意味を込めて日記に写真を貼っていこうと思う。今度こそ名実ともに写真の「供養」ということになる。

とは言ってもはてなブログにアップした写真は専用のアップローダーに半永久的に残るし、たぶん僕自身よりも長生きするのだが。

Twitter に載せようか迷ってやめた写真を供養する.

2021.01.26 の日記:没 1 - ぬるぬるバイオマット日記


最初に写真の供養をしたときの日記を見返していたら、もともとの目的はTwitterに載せようとして載せなかった写真の供養だったらしい。つまり写真ではなくツイートしようとしたときの僕の気持ちの処理をするための行動で、ちゃんと「供養」をしていた。

まあ確かに写真を供養するとは言っても実際は写真そのものではなく写真を撮ったときの気持ちと考えを供養していると言ったほうが正確かもしれない。

普段の日記も、思い考えてはすぐ消えていくものを供養していると言えるのかもしれない。僕は毎日僕自身を供養してから眠りについている。

書いてたらいい分量になったので写真の供養はまた別の日にやろっと。


僕よ、安らかに眠れ。昼過ぎまで。