レイ・ブラッドベリ『太陽の黄金の林檎』の感想の続き。
読み終わったのがかなり昔になってしまったので、感想が薄れている。かといって今感想を書かないと一生書かないので薄い感想をどんどん書いていく。
ついでに短編のタイトルを『』ではなく「」で括るように修正する。
14話目「山のあなたに」
遠い街との文通に憧れる人々の話。
読んでいて不安になる話。
これまでに読んだ短編を踏まえて考えると、遠い世界との交流を切望する滑稽さを遠くの光景を映すテレビに夢中になる人々のメタファーとして畫いているような気がしなくもないが深読みしすぎのような気もする。少なくともそう書いていたとしても意識的には書いていない。そもそも滑稽に表現しているつもりもないような気もするので全部気のせいかもしれない。
原題が"The Great Wide World Over There"らしく、直訳したほうが良かったのではと思わなくもない。
15話目「発電所」
発電所を通して自分は一人じゃないことを悟って不安から解放される話。自分は一人じゃないというか
好きな話。これは個と全体の話ですね。個として自分を認識してきた人が、全体を構成する一要素の個として自分を認識し直す。
悟るきっかけになるのが至る家庭と接続されている発電所であるのは道理である。この話を現代にリメイクしたらインターネットを通じて悟ることになるのだろうか。匿名掲示板を通じて各レスの投稿者が各地に実在することを感じてスレッドを構成するその中の一人として自分を認識する。……いや、そういう話ではないんだよな。個どうしが強く相互作用していることは全然重要じゃないのでこれだとミスリーディングだわ。やっぱり「発電所」で良かった。
16話目「夜の出来事」
ヒステリックな夫人を慰める話。
状況は理解できる。感想としてはよくわからない。あえて深読みすると社会福祉の皮肉?よくわからない。
17話目「日と影」
自宅がカメラで撮られることを執拗に妨害する男の話。
好きな話。自分のものが他人の文脈で解釈されることに全力で抵抗するの、すごく好感が持てる。流石にやりすぎだが。
物をパターン化してわかりやすく認識するのはできるだけやめようという気持ちになる。あるものをそのまま認識する。反省。
Twitter (の人々) のアンチテーゼでもある。なんでもかんでも何かしらのパターンや文脈に落とし込んで把握するのは良くない。パターンはパターンであり、個そのものとは関係がない。パターンを考えるときは個そのものの解釈とは独立になされるべきである。よくわからん僕の願望として個とパターンは相互作用してほしくなくて、個そのものと個そのものが相互作用して結果としてパターンになってほしいというのがある。個を見てパターンとして解釈してフィードバックを受けるの失礼っぽく感じる。
感想を書いたはいいものの読み返したら何言ってるかわからんな。こういうときは言語化がうまくいっていないのではなくてそもそもの思想が破綻している気がするので今までの話は全部なしで。
「日と影」というタイトルは撮影する側と被写体の非対称性を比喩しているのかな。単純に上層階級と下層階級を表している気もするが。いや、投影されて輪郭しかない影を見ていないで太陽に照らされた中身のある実物を見ろという意味な気がしてきた。わからん。