2021.07.10 の日記:ヒット・エンド・ラン

レイ・ブラッドベリ『太陽の黄金の林檎』の感想の最終回。

18話目「草地

この話を読んだ直後は思うところがかなりいろいろあっていつか日記に書こうと思っていたけど、数か月経ったら当時何を考えていたかほとんど忘れてしまった。こういうことがあるから日記を毎日つけることを強く習慣化して考えたことを文章として欠かさず残すようにしないとなと思う。とは言いつつ言語にすると考えが固まってしまうのでできるだけ文章化はしたくないという思いもあったりして。

まあともかく思い出せるだけ思い出して書いていこう。

映画セットの警備員がセットの取り壊しに抵抗する話。

警備員が“頭のおかしい”人なのだが、取り壊す側のプロデューサーが警備員の話を聞き、その世界観を理解して和解するというハッピーエンドである。最後に“アモンティリヤード”を飲み交わすシーンはすごくいい。良い話である。良い話ではあるのだが……

理解 (共感) される狂気ほど興ざめなことはないと思っていて、最初に警備員だけが持っていた狂気を孕んだ (というと言い過ぎかもしれないが) 世界観は「狂」であり「興」でもあるのだが、一旦それがプロデューサーに共感されてしまうと今まで曖昧だった世界観の輪郭が明確になって「狂」が失われると同時に「興」も薄れてしまうように感じる。「狂」は「興」に繋がるのだが、その本質は理解 (共感) のできなさにあるので、「狂」が関わる「興」は理解されるとその価値を失ってしまう。

端的に言うと、完全に理解できる鳥居みゆきのネタが面白いか、という話である。面白いとしてもそれは理解できなかったときに感じる面白さとは別の種類の面白さである。

これまでの話は三人称視点 (いやプロデューサーの二人称か?) から見た面白さの話だったが、よく考えると警備員の一人称視点から見た面白さの喪失のほうが深刻かもしれない。こちらはより単純で、自分だけが理解 (共感) している面白さというある意味究極のあるあるネタが他者に理解 (共感) されて究極ではなくなったことによる「興」の喪失である。アイデンティティーもついでに喪失している。この短編集2話目の「歩行者」の感覚が極めて近くて (そちらは喪失はない)、この話でもそういう感覚を意識して書いていてもおかしくなさそうだけどどうだろうか。

今調べたらこの話 (「草地」) が1947年、「歩行者」が1951年の作品らしい。単純に深読みするとこの話は純粋なハッピーエンドだが、その4年後にアンチテーゼを含めて「歩行者」を書いたという感じだろうか。

わかり合えることの素晴らしさもいいけどわかり合えないことの素晴らしさもあって、トレードオフであることよ。まあパレート最適のハッピーエンドではある。

いやまあこの短編はそういう話ではなくて僕が勝手にこういうことを連想しているだけなのだが……。評論ではなくあくまで読書感想文である。でも一番最後の風が吹く描写は警備員の世界観の「興」が失われてしまったことを表現しているのではと深読みしてみたり……。違うか。

こういうテキトーな文章を日常的に書いていると、科学的な文章を書くときにめちゃくちゃ影響しそうだな。気を付けないと……。


残りの短編の感想を全て書ききって最終回にするつもりだったけどこの話についてつい書きすぎてしまった。次回、改めて最終回。