2021.07.11 の日記:死体を運んで生きていく

レイ・ブラッドベリ『太陽の黄金の林檎』の感想の今度こそ最終回。


19話目「ごみ屋

国からの依頼によって家庭ごみを収集する仕事が原爆による被害者の死体を回収する仕事に変わってしまう話。

ごみ収集という日常に繋がる仕事が、死体回収という非日常の仕事に変化してしまう。傍から見れば街を回ってものを回収するという同じような作業だが、仕事の当事者としては扱うものの違いはとても大きな違いである。「いや、ごみと死体は傍からみても全然違うだろ死体だぞ死体」と思うかもしれないが、それは人間の「死体」を回収することについての倫理的な感覚や非日常的な異常さがほとんどの人々の間で共有されているからそう思うのであり、もしこの感覚があなただけに共有されていなかったらごみ収集が死体回収に変化しても何も感じないかもしれない。流石に死体に対する感覚はだいたい共有されているだろうけど、死体に準ずる倫理的な意味を持つもの全てが人々の間で共通しているとは限らない。

知らずに人に死体を運ばせてしまうことのないように気を付けましょう……

また逆に考えると、そんなつもりはなくてもあなたはいつも死体を運んでいる人だと周りからあるいは誰かからは思われているかもしれません……

まあそういう話ではないのだが。


20話目「大火事

恋する娘を取り巻く家族のユーモラスな話。

あまり好きな話ではない。嫌な世界だ、この世界は。みんな喜んで死体を運んでいる。


21話目「歓迎と別離

不老の“子供”が出会いと別れを繰り返す話。

不老不死は幸せかどうかという疑問に繋がる話だ。不老不死になりたい人となりたくない人の両方に読ませて感想を比較したい。

僕はわび・さびの一種だなと感じたけど、純粋な恐怖を感じる人もいるんだろうな。


22話目「太陽の黄金の林檎

表題の短編。太陽の熱を持ち帰る話。

最後の話。

しかし最後にしてほとんど感想がない。マジで書くことがない。終わり。

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終わりです。

レイ・ブラッドベリ、好きだな。出会えて良かった。わび・さびに通じる感覚がかなり好み。


この年齢になって評論ではなく感想文を書くのは意外と面白かった。逆にろくな人生経験もない小学生のときに読書感想文を書いても全然おもしろくなかったのはそれはそうだなと確認できた。面白い感想文を書ける小学生は天才。

映画とかアニメとか人の評論を見たり聞いたりする機会は多いけど、純粋な感想はあまり見ない。まあ僕が書いてきた一連の感想の中にも評論っぽくなった部分もあるけど、本質的には小説を通して自分語りをしているだけであった。そこには評論では得られない娯楽的 (というと評論を読むような頭を使うことが娯楽ではないという意味になってしまうがそれは違くて、ここで言いたいのは単純に世間一般でよく言われているような「頭を使わない娯楽」的 (さらに補足をすると頭を使うことこそが素晴らしいと言っているわけでもなく、どの方向に対しても嫌味や皮肉の意図はない (こんな補足を入れるくらいなら最初から別の表現を使え! (いやでもここで十分に補足を入れることで次からは何を気にせずに「娯楽的」という言葉を使うことができる) ) ) ) な楽しさがあったので……なんの話してたんだっけ……そうだ、思った感想をダラダラと書いていくのもみんなやってほしいなあということを言いたかったんだった。

いや自分が書いてきた感想を読み直してたらわりと評論しようとする意志が感じられるな。でも感想ということにしておけば正しさに責任を持たなくていい (そんなことはないが) ので感想文ということにしておこう。感想文、これで本当に終わり。