レイ・ブラッドベリ『太陽の黄金の林檎』感想まとめ


最近読んでいる本。レイ・ブラッドベリの短編集。人に勧められて読み始めた。「【名前】さん、この本の『題名』って話が好きそう」と言われたので興味を持って読み始めた。その話だけ読むのも違うので、最初から読んでいる。まだ勧められた話には辿り着いていない。分量が結構ある。電子書籍で読んでいるけど、ページ数が進んでいく感覚が遅すぎる。たぶん紙の文庫本だったらかなり厚い。ハヤカワSFにありがちな厚み。

いろいろ思うことがあったので、というかいろいろ思おうとして読んでいるような気もするのでここに感想を書いていく。完全なネタバレ。今回はバッファもない。ネタバレを人に見せていることとその正当性あるいは不当性を自覚してネタバレを堂々としていく。堂々とすることの正当性あるいは不当性をも自覚して自分の行動を正誤問わずに自覚的に生きていくぞ。これが行き過ぎるとマジで最悪な人間になるけどちょうど良い塩梅のところに人間の最適解があるような気もする。俺はネタバレをするぞ~~~。


1話目「霧笛

孤独な怪物が海底で生き続けている話。

深い海で巨大な”海生爬虫類“が太古の昔から生き続けているのはSFではなくてファンタジーだな~と思ったけど別にこの本はSFと銘打たれているわけでもなく僕が勝手にSF短編集だと思いこんでいただけだった。あと怪物の詳細な説明が登場人物の発言によってなされているので、登場人物の勘違いだと考えることもできる。地の文では統一して「怪物」と表現されているけど登場人物のセリフでは「恐竜の一種」とか言われていたり (たぶんこれはあえて「恐竜」と書いている)、怪物が置かれている孤独な状況はほとんど全て登場人物の解釈だし、そもそも地の文も登場人物の一人称視点で単なる個人の解釈が多分に含まれているので、登場人物の見解をどこまで真実とするかで物語を、というか出来事を柔軟に解釈できる。まあさっきを書いたようにこれはSFではないのでそういうのはどうでもいいのだが。この話の主題的にも出来事の真実性とかはどうでもいい。

深くて静かな孤独感とそれが情動として激しく外に現れる様子、いいね。この次の話もそうだけど、レイ・ブラッドベリの孤独感の表現 (情景描写ではなくて状況設定とか。僕は詩的な情景描写の咀嚼力が弱い) すごく良いな、ネガティブな孤独感もポジティブな孤独感も。好き。


2話目「散歩者」

誰も夜出歩くことのなくなった未来に夜の市街地を散歩する話。

文明が発展する中で風情みたいなものを解する人が少なくなっていくことは今となっては創作物のありふれたテーマだけど、この本の原作が出版されたのが1953年らしいのでその時代にこのテーマで書くことを考慮して考えなくてはいけない。本文中で市民は皆自宅に籠もって呆けたようにテレビを見ており、街中で屋外にいるのは主人公と警官 (?) だけである。警官が言うには全てが自宅の中で満たされる時代に目的もなく散歩をするような人間は異常であると。

1953年当時、アメリカ (レイ・ブラッドベリアメリカ人) のテレビの世帯普及率は44.7%で、その時系列変化は以下のようであったらしい。

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劇映画"空白の6年"(その3) より


今まさに普及しようとしていた時代だったらしい。

当時の雰囲気を想像しやすくするために、日本におけるスマホの普及率と比較してみよう。

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総務省|令和2年版 情報通信白書|情報通信機器の保有状況 より


状況としては2012年が似ている。1953年のアメリカのテレビの普及の感覚は僕たちの世代で言うと2012年より少し前のスマホの普及の感覚に近そうである。学生だと中学高校大学の境目で買い換えることが多いと思うので1,2年の違いで感覚は少し違うだろうが、2013年くらいには周りの過半数スマホに変えていた気がするので確かに感覚に合っている。

すなわち、スマホが普及するにつれて失われていくものを描いた小説を2012年に出版するような敏感さがこの話にはある。なんかインターネットやSNSが普及して誰でもすぐに情報を発信・受信できるようになったのでこの敏感さがあまり凄い気がしないけど、小説というかたちで発表するということを考えるとやっぱり凄いような気もする、知らんけど。


上述のような風刺は実は僕としてはどうでも良くて、街中で自分だけが風情を理解して散歩しているというポジティブな孤独感の描写が好き。風情を理解しているから孤独なのと同時にその孤独という風情を感じている状況が良すぎる。まあ現実では自分だけが風情を理解しているというのはありえなくてむしろ大多数が風情を理解していてイデアの風情を理解しない人々を自分と対比させて気持ちよくなっているだけになるのが関の山であり、そこにある孤独感やあるいはマイノリティ内での狭い共感というのは全てまやかしであり僕がわりと嫌っているものである。嫌っているというと言い過ぎではあるけど。せめてそういう偽の孤独感に身を浸すときは全てを完全に自覚しつつ行動したい。そうするとつまらない人間になって本当に孤独になります。


3話目「四月の魔女」

人間と交際してはいけないという掟に背いて若い魔女が人間の少女の体に乗り移って恋をする話。

ホラー (というかサスペンスというかとにかく嫌で不快でカタルシスを溜める類の話) だな~と思って読んでいたんだけど、ネット上の感想を見るとほぼ例外なくロマンティックな恋心を書いた作品だと紹介されていてオイオイと思った。おしまいだよ、こんな世界。

本文中で魔女が他者の体を乗っ取っていく様子が異常なまでに美しく描写されていて、それはそういう皮肉だと感じて読んでいたけど、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。おしまいだよ、こんな世界。

他者への好感あるいは嫌悪感に基づいて他者との微妙な意思疎通をコントロールする自由を他人に奪われる絶望感が“コミカル"に描写された様を見てただコミカルに描写されているとしか思わない人間ばかりで構成される世界、おしまいだよ。3人いる登場人物の誰の立場にもなりたくない。何も関わりたくない。己の言動の責任感に押しつぶされてその後ずっと当時の記憶を引きずって人生を生きていくことになりそう。

育ちや環境に恵まれて自らの言動が他者に及ぼす影響を自覚せずとも経験的に表面上は上手に振る舞える人間、極論を言うと本質的には自身のストーカーや痴漢のポテンシャルに無自覚で、日常生活で関わる99%の人間との関係は平常に円滑に流れていくものの残りの1%の人間との関係は壊滅的に噛み合わずしかも相手側の人生にのみ甚大な被害を与えて本人はそれに無自覚であるという個々の事象に着目すると (ただしこれは本質的ではない) マジで最悪な人間なのだが、『四月の魔女』をロマンティックなラブストーリーと解釈する人間はそういう人間である。肉欲に任せて非倫理的な (これはストーカーや痴漢のような犯罪ではなくあくまでごく若い学生が見たときに非倫理的だと感じるような) 行動をしておきながら自身を肯定するために大人の恋愛などとふざけた言葉で説明するような人間で構成された社会が連続的に存続していくような世界で生産されるそういう人間である。そういう人間が、乗り移られたほうは「ちょっとだけ気の毒」というような想像力のない感想を言うのである。そういう人間。

それに比べたらストーカーや痴漢といった自分本位な異常さのポテンシャルを持ちながらもその性質に対して誠実に自覚的でそういった直接的な犯罪からは流石に遠いと感じながらも滲み出すその性質がもたらす影響に身を震わせて必死に理性をもってその性質を包み隠そうとする人間のなんとマトモなことか!『四月の魔女』はそういった人間とは対極にいる”人間”の話。それが思春期の少女であれば果たして許されるのか。

こんな世界、あるいは世界を構成するこんな人間たち、あるいはあなたの中のそういった要素、はたまた逆にそれらに対するあなたの感受性、いっそのこと全て滅ぼしてしまいたくありませんか?

こちらにお座りください。

座りましたら、目を閉じ、リラックスしてください。祈祷は30分ほど執り行いますので是非楽な姿勢で。

よろしいでしょうか。それでは参ります。








お疲れ様でした。本日のお祓いは以上になります。

この後、受付にて祈祷料をお納めください。

またのお越しをお待ちしております……


改めてネット上の感想をいろいろ見ていたら、「背後に魔女の存在を仮定しないと説明できないような思春期の少女の不安定でわがままな言動を描いている」という解説を見つけてなるほど~~~!と思った。それが物語の主軸ではないにしろ着想や一つの要素としてそういうものがあるとするとすごく納得できる。現実の具体的な出来事の裏側にある虚構を創造して話が作られたと考えると、具体的な出来事が現実に存在するという事実に対比されて話の中の創造された部分のフィクション性が際立つことで、これまで述べてきた絶望的な状況はユーモアに昇華する。そうなると確かにコミカルな描写を純粋に楽しんでいる人がいることにも頷ける。あとちゃんと調べたら乗り移る魔女の残酷さに触れている人がやっぱり少しいた。

他人の感想を知らずに自分一人で咀嚼するだけだったらこの解釈には絶対にたどり着けなかったと思う。「思春期の少女あるある」みたいなものへの共感性が低い。悔しい。


3話目「荒野」

結婚するために男の勤務地である火星に移住しようとする女たちの移住前夜を描いた話。

文明は発展しても変わらない人間の本質的な心情や行動を描写しており、『散歩者』の対極にある話と言えそうである。まあさらに言ってしまえばほとんどドリカムの大阪LOVERである (ちょっと違うか)。

僕の人生経験が薄いせいで大した感想が出てこない。まあそうか~と思うだけである。


4話目「鉢の底の果物」

殺人の証拠を消そうと必死になって指紋を拭き取り続ける話。

僕にはこういう強迫性障害みたいな心理と行動はないので (ないよね?) ほのかにユーモラスな話として読んでいたけど、そういう強迫観念や強迫行動が日常である人がこれを読んだらけっこう怖いサスペンスのような話として捉えるのではないだろうか。ユーモラスな話だと僕が感想を言うのをそういう人が聞いたら嫌悪感を抱かれそうだな。『四月の魔女』の感想のときとは逆の立場になってしまった。お祓いをお願いいたします……

とは言いつつユーモアとしてもサスペンスとしてもわりと好きな話である。

登場する人物が全員異常な物語、マンガでも小説でも読んでいてすごく安心するのでこの話も安心して読んでいた。創作でも現実でも正常過ぎる人間はむしろ異常なので正常過ぎる人間を見ると有ってはいけないものを見たような落ち着かなさを感じる。現実の人間は全員異常だし、創作物の人間も全員異常であるべきである、正常さをテーマにしている場合を除いて。人間の異常さは人間の魅力そのものであり異常さを理解することは人間を理解することである。人間の異常さを描くことで人間そのものを誠実に描くことができ、人間の異常さが描かれている作品にはそういった意味で信頼感がある。この話もそういう作品である。


レイ・ブラッドベリ、今現在読み進めているけど読むタイミングかなり良かったな。ちょうど良い程度に話を咀嚼できるような精神年齢で読めている。高校のときに読んでも良さがあまりわからなかったと思う。なんなら大学学部のときに読んでも同じかもしれない。なんかインターネット上をテキトーに調べると中学生で星新一を経て読み始める人が多いと書いてあったけどマジか。世間の人々、感受性の発達が早すぎないか。中学生の僕がレイ・ブラッドベリ読んでも何も楽しくないと思うが。星新一は文学というか純粋にアイデアを吸収するという意味で世代を選ばずに好まれていると思うけど、レイ・ブラッドベリは少なくともこの短編集を読む限りだとオチのアイデアよりは大枠の舞台設定の巧みさ (僕はここが好き) と情景描写の美しさを楽しむ文章であって感受性や人生経験がないと深く楽しめないような気がする。もしかして僕以外の全人類は今も僕の感覚のいくつか高次のレイヤーから世界を見ているんですか?嫌すぎる。

僕以外の人間が僕の思考をメタ的に把握しないでくれ~~~。まあそれなら日記なんて書くなよという話になるのだが。


6話目「目に見えぬ少年」

老婆が少年に対して透明になる魔法をかけたという嘘をつく話。

これも異常な人間が出てくる話。

“透明”になった側の孤独感ではなくて“透明”にした側の孤独感を書いてるのすごい。そこから考えると物語の設定が全て必然性を帯びてくる。魔法が偽物である理由も相手が少年である理由も場所も物語のオチも全てが最適化されているように感じる。すご。

相手の言動に対して自分からははたらきかけることのできない切なさみたいなのはまあわからんでもないけど、そこにはそれ故の美しさもあると思うのでそれをテーマにしてまた違った書き方でもう1作品あったら嬉しいな。

かなり面白いな~と思うけど特に好きなわけではない。


7話目「空飛ぶ機械」

古代中国で空飛ぶ機械を作った農民が処刑される話。

解釈が自分の中でまだ固まっていない。

たぶんメインのテーマではないし一切そういう意味が込められていないかもしれないけど、“役に立たない”理学やあるいはアートを国が贔屓しすぎても良くないかもしれないという教訓があるような気がする。“役に立つ”科学に対して理解のない政府という本来ありえない世界を書いていると言うとわかりやすいか。

こういう話を国というか王の視点から書くのは面白い。普通は理不尽に処刑される側の心情をあれこれ書くものだけど、ここで処刑する側の屈折した恐怖を書くのはやはりすごい。

レイ・ブラッドベリはなんというか弱者や強者といった立場には関係がなく人間に普遍的な異常さを書くのが上手い気がする。物語としては弱者に焦点を当てて恐怖感や悲壮感を書くほうが飲み込みやすいけど、あえて強者の心情を表現しようとすることで弱者強者に渡る普遍的な感情を読者に自覚させるという感じか。まあこの段落はけっこうテキトーなことを書いている気がする。この話も強者に特有の感情を書いている気もする。

弱者の話は弱者であることが必要以上の影響を持ってしまって読んでいるとウワーという気持ちになってしまうので強者の話のほうが好みである。弱者であることはそれ自体が強い立場にもなりうるので全人類の皆さんはそれを自覚して生きてください。この話はどう着地させても全員が幸せにはならないのでこれで終わりです。

この話も面白いな~と思うけど特別好きなわけではない。


どんな話でも考察のしようによっては面白くなるので評価基準が好きか好きじゃないかになってしまうな。特に感想文を書いてると自分が面白いと思うような内容の考察を書いてしまう (それはそう) のでどの話もよく考えると面白いという感想になってしまう。上の2話も読んだ直後は面白くも好きでもないな~と思っていたけど、感想文を書いている間にまあなんかよく考えたらわりと面白いな~という感想に落ち着いた。そういう意味で好きかそうでないかという評価は面白いかそうでないよりも本質的な基準になる。少なくとも僕は。


8話目「人殺し」

周囲の通信機器を壊しまくる“精神異常者”の患者と面談する話。

『散歩者』とほとんど同じだけど、より直接的な風刺だけで話をまとめた印象。やはりこの時代にこれを書けるのがすごい。

まあ時代の風刺が主軸ということで今読んでも今更感がある。

色々な音楽が混ざり合って聞こえてくる様子が具体的な曲名とともに描写される文章が本文中にあるけど、音楽に明るい人曰くちゃんと音的に相性の悪い曲を選んでいるらしく、実際に同時に聞くと不快な音になるらしい。へ~。

話として好きではある。

この話は読んだ人の100%が理解できる風刺だと思うけど、そういう風刺は果たして本当に面白いのかわりと疑問に思う。


9話目「金の凧、銀の風」

2つの街が互いに対抗して総力を上げて城壁の形を作り変えていく話。

これは示唆的な話ですね~~~。大変に寓話的で示唆的な教訓めいた話ですね~~~。まあテーマにしているものがものだけにあまりふざけたことは言えない。中学の教科書に載っていそうな話だなという感想。

面白くもないし好きではない。これまでで一番何も感じなかった話かもしれない。僕が感じ取れなかった、あるいは気づけなかった面白い要素があったのだろうか。解説キボンヌ。


10話目「二度と見えない」

突然の別れの話。

これは明確に僕の感受性の問題で、あまり感想がないな。

英語が不自由な移民の話なので、原作ではその人のセリフは文法的に不正確な英語になっているらしい。もちろん日本語訳でも不自由な日本語として訳されているのだけど、この話はいろいろな翻訳家に和訳されて世に出ているので本によって訳が全然違ったりする。タイトルは原文だと"I see you never"なのだけど、日本語版だと『二度と見えない』『わかれ』『もう会えない』などのバリエーションがある。最初の訳は不自由な英語がわかりやすく表現されている。これ英語ネイティブの人は実際どう感じるのだろうか。想像がつかない。僕なりの感覚で日本語訳を考えていたけど全然思いつかないな。思い切ってめちゃくちゃ意訳したほうがやりやすいか。


11話目「ぬいとり」

これまで読んできた話の中で圧倒的に好き。LOVE。多くは語らないので興味がある人は自分で読んでください。


12話目「黒白対抗戦」

黒人と白人がチームに別れて野球をする話。

これは明確に黒人差別を取り巻く雰囲気を書いているんだろうけど、身近な差別として黒人差別がよく認識できていないのでただ読んだだけになってしまった。

差別に普遍的にある構造を見出して身近な問題と照らし合わせるような感想を書ければそれっぽくなるけどそこまでするモチベーションがないな。


13話目サウンド・オブ・サンダー (雷の音)」

過去に行ったら歴史を変えてしまった話。

人に勧められて読み始めた。「【名前】さん、この本の『題名』って話が好きそう」と言われたので興味を持って読み始めた。

2021.06.20 の日記:ネタバレ人間 - ぬるぬるバイオマット日記


そもそもこの本を読み始めたきっかけとなったのはこの話なのである。

バタフライ・エフェクトという言葉が広まる20年ほど前、さらに言うとカオス理論が登場するよりも10年ほど前に書かれた話である。過去を変えると未来が大きく変わるというのはまあ言ってしまえば誰でも思いつきそうなことであるが、この話のすごいところはカオスの定義のひとつとされる有界性を巧みに取り入れているところである。

例えば比が1よりも大きい等比数列は初期値の僅かな違いが指数的に大きくなっていくという点でカオスと同じ初期値鋭敏性を持っているが、値が無限に発散してしまうため有界性を持っていおらず、そのためにカオス的な挙動とは言えない。カオスは初期値鋭敏性だけではなく有界性をもって、将来の値の予測を困難にさせるのである。

1億年前の世界で1匹の“ネズミ”を殺してしまった場合に未来の世界で人類が誕生しなくなってしまうというお約束がある。その“ネズミ"は人類の祖先の1匹であり、後に集団に固定される重要な遺伝子を突然変異により獲得した最初にして唯一の個体だった考えると説明ができるだろう。その“ネズミ"が生むはずだった子孫が生まれなくなり、さらにその子孫が生むはずだった子孫も……というように僅かな差異が蓄積していきその結果として人類が存在しない世界が生まれる。このお話はどことなく先程の等比数列の例に似ている。初期の差異は単純に増加していき結果として大きな違いとなるが、その結果はある程度予測ができる。

ここで世界を動かすシステムが有界であることを考えよう。システムの構造やパラメーターが変化しない限り1億年前にどんな摂動が与えようとも6600万年前に恐竜は絶滅し、その700万年後にイモガイ科が登場し、さらにその約5850万年後に現れたヒトが恐竜やイモガイの研究をするようになる。SFチックな説明をすると、過去の摂動で分岐したパラレルワールドはそれぞれの方向へ進むのではなく、しめ縄のように互いに絡み合い、ときにはごく近傍を交差しながら“世界線”を形成する。世界のおおまかな流れは有界な範囲内に制限されているが、世界がその範囲内のどこを通過するかを予測することは非常に困難である。

サウンド・オブ・サンダー』はそういう世界において過去改変がどういう影響を与えるのかをカオス理論の登場前に感覚的に理解したうえで書かれた作品である。厳密なカオス理論に落とし込んで定式化するのは難しそうだけど、だいたいこういうイメージである。


まあでも好きな話かと言われるとそうでもないな。教養として読んでおいて良かったという程度の感想。


14話目「山のあなた

遠い街との文通に憧れる人々の話。

読んでいて不安になる話。

これまでに読んだ短編を踏まえて考えると、遠い世界との交流を切望する滑稽さを遠くの光景を映すテレビに夢中になる人々のメタファーとして畫いているような気がしなくもないが深読みしすぎのような気もする。少なくともそう書いていたとしても意識的には書いていない。そもそも滑稽に表現しているつもりもないような気もするので全部気のせいかもしれない。

原題が"The Great Wide World Over There"らしく、直訳したほうが良かったのではと思わなくもない。


15話目「発電所

発電所を通して自分は一人じゃないことを悟って不安から解放される話。自分は一人じゃないというか

好きな話。これは個と全体の話ですね。個として自分を認識してきた人が、全体を構成する一要素の個として自分を認識し直す。

悟るきっかけになるのが至る家庭と接続されている発電所であるのは道理である。この話を現代にリメイクしたらインターネットを通じて悟ることになるのだろうか。匿名掲示板を通じて各レスの投稿者が各地に実在することを感じてスレッドを構成するその中の一人として自分を認識する。……いや、そういう話ではないんだよな。個どうしが強く相互作用していることは全然重要じゃないのでこれだとミスリーディングだわ。やっぱり「発電所」で良かった。


16話目「夜の出来事

ヒステリックな夫人を慰める話。

状況は理解できる。感想としてはよくわからない。あえて深読みすると社会福祉の皮肉?よくわからない。


17話目「日と影

自宅がカメラで撮られることを執拗に妨害する男の話。

好きな話。自分のものが他人の文脈で解釈されることに全力で抵抗するの、すごく好感が持てる。流石にやりすぎだが。

物をパターン化してわかりやすく認識するのはできるだけやめようという気持ちになる。あるものをそのまま認識する。反省。

Twitter (の人々) のアンチテーゼでもある。なんでもかんでも何かしらのパターンや文脈に落とし込んで把握するのは良くない。パターンはパターンであり、個そのものとは関係がない。パターンを考えるときは個そのものの解釈とは独立になされるべきである。よくわからん僕の願望として個とパターンは相互作用してほしくなくて、個そのものと個そのものが相互作用して結果としてパターンになってほしいというのがある。個を見てパターンとして解釈してフィードバックを受けるの失礼っぽく感じる。

感想を書いたはいいものの読み返したら何言ってるかわからんな。こういうときは言語化がうまくいっていないのではなくてそもそもの思想が破綻している気がするので今までの話は全部なしで。

「日と影」というタイトルは撮影する側と被写体の非対称性を比喩しているのかな。単純に上層階級と下層階級を表している気もするが。いや、投影されて輪郭しかない影を見ていないで太陽に照らされた中身のある実物を見ろという意味な気がしてきた。わからん。


18話目「草地

この話を読んだ直後は思うところがかなりいろいろあっていつか日記に書こうと思っていたけど、数か月経ったら当時何を考えていたかほとんど忘れてしまった。こういうことがあるから日記を毎日つけることを強く習慣化して考えたことを文章として欠かさず残すようにしないとなと思う。とは言いつつ言語にすると考えが固まってしまうのでできるだけ文章化はしたくないという思いもあったりして。

まあともかく思い出せるだけ思い出して書いていこう。

映画セットの警備員がセットの取り壊しに抵抗する話。

警備員が“頭のおかしい”人なのだが、取り壊す側のプロデューサーが警備員の話を聞き、その世界観を理解して和解するというハッピーエンドである。最後に“アモンティリヤード”を飲み交わすシーンはすごくいい。良い話である。良い話ではあるのだが……

理解 (共感) される狂気ほど興ざめなことはないと思っていて、最初に警備員だけが持っていた狂気を孕んだ (というと言い過ぎかもしれないが) 世界観は「狂」であり「興」でもあるのだが、一旦それがプロデューサーに共感されてしまうと今まで曖昧だった世界観の輪郭が明確になって「狂」が失われると同時に「興」も薄れてしまうように感じる。「狂」は「興」に繋がるのだが、その本質は理解 (共感) のできなさにあるので、「狂」が関わる「興」は理解されるとその価値を失ってしまう。

端的に言うと、完全に理解できる鳥居みゆきのネタが面白いか、という話である。面白いとしてもそれは理解できなかったときに感じる面白さとは別の種類の面白さである。

これまでの話は三人称視点 (いやプロデューサーの二人称か?) から見た面白さの話だったが、よく考えると警備員の一人称視点から見た面白さの喪失のほうが深刻かもしれない。こちらはより単純で、自分だけが理解 (共感) している面白さというある意味究極のあるあるネタが他者に理解 (共感) されて究極ではなくなったことによる「興」の喪失である。アイデンティティーもついでに喪失している。この短編集2話目の「歩行者」の感覚が極めて近くて (そちらは喪失はない)、この話でもそういう感覚を意識して書いていてもおかしくなさそうだけどどうだろうか。

今調べたらこの話 (「草地」) が1947年、「歩行者」が1951年の作品らしい。単純に深読みするとこの話は純粋なハッピーエンドだが、その4年後にアンチテーゼを含めて「歩行者」を書いたという感じだろうか。

わかり合えることの素晴らしさもいいけどわかり合えないことの素晴らしさもあって、トレードオフであることよ。まあパレート最適のハッピーエンドではある。

いやまあこの短編はそういう話ではなくて僕が勝手にこういうことを連想しているだけなのだが……。評論ではなくあくまで読書感想文である。でも一番最後の風が吹く描写は警備員の世界観の「興」が失われてしまったことを表現しているのではと深読みしてみたり……。違うか。

こういうテキトーな文章を日常的に書いていると、科学的な文章を書くときにめちゃくちゃ影響しそうだな。気を付けないと……。


19話目「ごみ屋

国からの依頼によって家庭ごみを収集する仕事が原爆による被害者の死体を回収する仕事に変わってしまう話。

ごみ収集という日常に繋がる仕事が、死体回収という非日常の仕事に変化してしまう。傍から見れば街を回ってものを回収するという同じような作業だが、仕事の当事者としては扱うものの違いはとても大きな違いである。「いや、ごみと死体は傍からみても全然違うだろ死体だぞ死体」と思うかもしれないが、それは人間の「死体」を回収することについての倫理的な感覚や非日常的な異常さがほとんどの人々の間で共有されているからそう思うのであり、もしこの感覚があなただけに共有されていなかったらごみ収集が死体回収に変化しても何も感じないかもしれない。流石に死体に対する感覚はだいたい共有されているだろうけど、死体に準ずる倫理的な意味を持つもの全てが人々の間で共通しているとは限らない。

知らずに人に死体を運ばせてしまうことのないように気を付けましょう……

また逆に考えると、そんなつもりはなくてもあなたはいつも死体を運んでいる人だと周りからあるいは誰かからは思われているかもしれません……

まあそういう話ではないのだが。


20話目「大火事

恋する娘を取り巻く家族のユーモラスな話。

あまり好きな話ではない。嫌な世界だ、この世界は。みんな喜んで死体を運んでいる。


21話目「歓迎と別離

不老の“子供”が出会いと別れを繰り返す話。

不老不死は幸せかどうかという疑問に繋がる話だ。不老不死になりたい人となりたくない人の両方に読ませて感想を比較したい。

僕はわび・さびの一種だなと感じたけど、純粋な恐怖を感じる人もいるんだろうな。


22話目「太陽の黄金の林檎

表題の短編。太陽の熱を持ち帰る話。

最後の話。

しかし最後にしてほとんど感想がない。マジで書くことがない。終わり。


===


終わりです。

レイ・ブラッドベリ、好きだな。出会えて良かった。わび・さびに通じる感覚がかなり好み。


この年齢になって評論ではなく感想文を書くのは意外と面白かった。逆にろくな人生経験もない小学生のときに読書感想文を書いても全然おもしろくなかったのはそれはそうだなと確認できた。面白い感想文を書ける小学生は天才。

映画とかアニメとか人の評論を見たり聞いたりする機会は多いけど、純粋な感想はあまり見ない。まあ僕が書いてきた一連の感想の中にも評論っぽくなった部分もあるけど、本質的には小説を通して自分語りをしているだけであった。そこには評論では得られない娯楽的 (というと評論を読むような頭を使うことが娯楽ではないという意味になってしまうがそれは違くて、ここで言いたいのは単純に世間一般でよく言われているような「頭を使わない娯楽」的 (さらに補足をすると頭を使うことこそが素晴らしいと言っているわけでもなく、どの方向に対しても嫌味や皮肉の意図はない (こんな補足を入れるくらいなら最初から別の表現を使え! (いやでもここで十分に補足を入れることで次からは何を気にせずに「娯楽的」という言葉を使うことができる) ) ) ) な楽しさがあったので……なんの話してたんだっけ……そうだ、思った感想をダラダラと書いていくのもみんなやってほしいなあということを言いたかったんだった。

いや自分が書いてきた感想を読み直してたらわりと評論しようとする意志が感じられるな。でも感想ということにしておけば正しさに責任を持たなくていい (そんなことはないが) ので感想文ということにしておこう。感想文、これで本当に終わり。