2021.07.23 の日記:変わらないもの

疲れたので化石を調べるのは延期して他の写真の供養をするぞ。

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Spring-8の宿舎のある丘から撮った写真。中央の横に伸びている建物がリング棟で左端やや下の建物は食堂。

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SPring-8宿舎のトイレ。特に意味はない。

小学校低~中学年のときだったと思うけど、地域の集まりで新潟の佐渡ヶ島へ臨海実習的な合宿をしに行ったことがある。出発のときに参加者の生徒にひとつずつインスタントカメラ (写ルンです) が配られて、合宿中に好きなものを撮ってみようという粋な計らいがあった。

しかし当時の僕には写真を撮って思い出として残すということの意味や価値がよくわからなかった。たぶん時間の感覚が育っていなかったのだと思う。過去や未来に思いを馳せることはなく、その瞬間を生きるだけの生き物だったのだと思う。写真を撮ると後の人生でも当時のその光景をありのままに見ることができるということは理解していたけど、未来の自分というものが実感できないのでそれをして何が嬉しいのかを想像することができなかった。逆に後の人生で写真を見返しても過去の自分が実感できないので、昔の光景を写真で見ても自分の経験を結び付けられず何も感じられなかった。集合写真とか広い意味での記念写真の撮影は一種の儀式だと思っていた。まあそれはあながち間違いではないのだろうが、当時はより純粋に儀式的なものだと感じていた。皆で集まって「はいチーズ」と言われ姿勢を調整してカメラの前に固まることに意味を見出すとしたらそれは形式的な儀式だとしか考えられなかった。

当時の、とか言っているけどわりと最近、5, 6年前までそういうことを思っていた。だから上でSPring-8の景色の写真をアップしているのは僕の人生でも大きな変化なのである。当時の僕が今の僕を見たら「儀式に意味を見出す信心深い奴め……」とか思ったかもしれない。

まあ長期的な時間感覚は現在も弱いので根っこのところは変わっていないのかもしれない。


一方でただ面白いと思った瞬間をカメラに収めることは当時から理解できたので、そういう写真だけは撮っていた。だから当時の僕が撮った写真は僕が本当に好きなものだけが写っている。そういうわけで話を戻すと、合宿中に僕が撮った写真30枚ほどはそのうちのほとんどが僕が興味を示した2種類のものしか写っていない。そのうちの1つが宿のトイレである。なぜか思い出せないけど宿のトイレが面白くてひたすら写真を撮っていた。トイレの写真を撮ったらシュールで面白いんじゃないかというクソガキ的な意図があったような気もする。

そういうことをふと思い出してSPring-8の宿のトイレを撮ってみた。面白くはない。

合宿中に写真に収めたもう1つの対象はフェリーが通った後に海面が泡立つ模様であった。大局的にはずっと変わらないようで局所的には瞬間ごとに毎回違う模様となって二度と同じ模様が現れないことが面白くて、これは写真に写す価値があると思い同じ構図で写真を撮りまくった記憶がある。現在模様をやっているのも必然なのかもしれない。人生の伏線回収っぽくて良いね。下ばかり見てたのでめっちゃ船酔いしたけど。

日記のネタにするぞとか思わずに自分の心に正直に写真を撮っていきたいなと思い直した。トイレとか撮ってる場合ではない。