2021.06.17 の日記:一般化ぬるぬるバイオマット日記

日記の日付と実際に書いている日付と公開される日付がかなりズレている状況は続いているわけだが、これはかなり良い状況だと思っている。

どんな内容の日記でも、日常の出来事をきっかけにして考えたり連想したりしたことを書いているわけだが、きっかけになる日常の出来事そのものについては言及していないし対象にもしていないことが多くて (そうは見えなくても) 、実際は出来事をかなり一般化した抽象的なことについて語っていたりする。書いたその日の夜に日記を公開すると、日記の内容から僕が経験したであろう具体的な出来事を特定することができて、そのときの僕の心情を推定することも容易にできるように思うがそれはかなり無意味に近い。個々の出来事そのものについては何も思っていなかったり興味がなかったりする。上述の日付の分散は具体的な出来事の特定を困難にさせて、こういう無意味な推定を防ぐことことができるという点で僕にとって好都合である。

前にちょっと書いた個と全体の話に近いかもしれない。

まあ抽象的なことを書いているようで日常のめちゃくちゃピンポイントな出来事を明確に意識して書いている日もあったりなかったりするので、まあなんかアレだ。日付の分散はこちらの特定を防ぐ効果もあって、こちらのほうが僕にとっては嬉しいかもしれない。かもしれないって書いたけど、明確にそうだわ。「かもしれない」が口癖 (文癖?) になっている。テキトーなことを言わないようにどんな文章にでも「かもしれない」と付けようとする気持ちが強すぎるのかもしれない。


まあ昨日はめちゃくちゃ具体的な日々の出来事についてだけ書いてしまったが。それでも僕はそのなかでも重要な部分として自分の中で感情を消化するやり方を書いていて、その辺りは僕の性格の根っこのところを書けているのではないかなあと思う。一般化した出来事について書いているというよりは、具体的な出来事を通して自分の性格の本質的なところを書いているといったほうが正確かもしれない。出来事に対する自分の反応を一般化するというイメージ。


伊勢志摩旅行の話とかサイクリングの話とかは、実際の出来事の流れを書かなければいけないのでそこからどう自分の内面の話に繋げるかという難しさはある。まあ書いているときは難しいことは考えずにただ思いついたことを書き殴っているだけだが。あとからよく考えたら自分の文章にはこういう傾向があることがわかったという話。