2021.06.22 の日記:祈祷料は30万円になります

『太陽の黄金の林檎』の感想の続き。

3話目『四月の魔女』

人間と交際してはいけないという掟に背いて若い魔女が人間の少女の体に乗り移って恋をする話。

ホラー (というかサスペンスというかとにかく嫌で不快でカタルシスを溜める類の話) だな~と思って読んでいたんだけど、ネット上の感想を見るとほぼ例外なくロマンティックな恋心を書いた作品だと紹介されていてオイオイと思った。おしまいだよ、こんな世界。

本文中で魔女が他者の体を乗っ取っていく様子が異常なまでに美しく描写されていて、それはそういう皮肉だと感じて読んでいたけど、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。おしまいだよ、こんな世界。

他者への好感あるいは嫌悪感に基づいて他者との微妙な意思疎通をコントロールする自由を他人に奪われる絶望感が“コミカル"に描写された様を見てただコミカルに描写されているとしか思わない人間ばかりで構成される世界、おしまいだよ。3人いる登場人物の誰の立場にもなりたくない。何も関わりたくない。己の言動の責任感に押しつぶされてその後ずっと当時の記憶を引きずって人生を生きていくことになりそう。

育ちや環境に恵まれて自らの言動が他者に及ぼす影響を自覚せずとも経験的に表面上は上手に振る舞える人間、極論を言うと本質的には自身のストーカーや痴漢のポテンシャルに無自覚で、日常生活で関わる99%の人間との関係は平常に円滑に流れていくものの残りの1%の人間との関係は壊滅的に噛み合わずしかも相手側の人生にのみ甚大な被害を与えて本人はそれに無自覚であるという個々の事象に着目すると (ただしこれは本質的ではない) マジで最悪な人間なのだが、『四月の魔女』をロマンティックなラブストーリーと解釈する人間はそういう人間である。肉欲に任せて非倫理的な (これはストーカーや痴漢のような犯罪ではなくあくまでごく若い学生が見たときに非倫理的だと感じるような) 行動をしておきながら自身を肯定するために大人の恋愛などとふざけた言葉で説明するような人間で構成された社会が連続的に存続していくような世界で生産されるそういう人間である。そういう人間が、乗り移られたほうは「ちょっとだけ気の毒」というような想像力のない感想を言うのである。そういう人間。

それに比べたらストーカーや痴漢といった自分本位な異常さのポテンシャルを持ちながらもその性質に対して誠実に自覚的でそういった直接的な犯罪からは流石に遠いと感じながらも滲み出すその性質がもたらす影響に身を震わせて必死に理性をもってその性質を包み隠そうとする人間のなんとマトモなことか!『四月の魔女』はそういった人間とは対極にいる”人間”の話。それが思春期の少女であれば果たして許されるのか。

こんな世界、あるいは世界を構成するこんな人間たち、あるいはあなたの中のそういった要素、はたまた逆にそれらに対するあなたの感受性、いっそのこと全て滅ぼしてしまいたくありませんか?

こちらにお座りください。

座りましたら、目を閉じ、リラックスしてください。祈祷は30分ほど執り行いますので是非楽な姿勢で。

よろしいでしょうか。それでは参ります。








お疲れ様でした。本日のお祓いは以上になります。

この後、受付にて祈祷料をお納めください。

またのお越しをお待ちしております……


改めてネット上の感想をいろいろ見ていたら、「背後に魔女の存在を仮定しないと説明できないような思春期の少女の不安定でわがままな言動を描いている」という解説を見つけてなるほど~~~!と思った。それが物語の主軸ではないにしろ着想や一つの要素としてそういうものがあるとするとすごく納得できる。現実の具体的な出来事の裏側にある虚構を創造して話が作られたと考えると、具体的な出来事が現実に存在するという事実に対比されて話の中の創造された部分のフィクション性が際立つことで、これまで述べてきた絶望的な状況はユーモアに昇華する。そうなると確かにコミカルな描写を純粋に楽しんでいる人がいることにも頷ける。あとちゃんと調べたら乗り移る魔女の残酷さに触れている人がやっぱり少しいた。

他人の感想を知らずに自分一人で咀嚼するだけだったらこの解釈には絶対にたどり着けなかったと思う。「思春期の少女あるある」みたいなものへの共感性が低い。悔しい。

(続く)