2021.06.21 の日記:PedestrianのPedestrian感のなさは異常

『太陽の黄金の林檎』の感想の続き。

2話目『散歩者』

誰も夜出歩くことのなくなった未来に夜の市街地を散歩する話。

文明が発展する中で風情みたいなものを解する人が少なくなっていくことは今となっては創作物のありふれたテーマだけど、この本の原作が出版されたのが1953年らしいのでその時代にこのテーマで書くことを考慮して考えなくてはいけない。本文中で市民は皆自宅に籠もって呆けたようにテレビを見ており、街中で屋外にいるのは主人公と警官 (?) だけである。警官が言うには全てが自宅の中で満たされる時代に目的もなく散歩をするような人間は異常であると。

1953年当時、アメリカ (レイ・ブラッドベリアメリカ人) のテレビの世帯普及率は44.7%で、その時系列変化は以下のようであったらしい。

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劇映画"空白の6年"(その3) より


今まさに普及しようとしていた時代だったらしい。

当時の雰囲気を想像しやすくするために、日本におけるスマホの普及率と比較してみよう。

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総務省|令和2年版 情報通信白書|情報通信機器の保有状況 より


状況としては2012年が似ている。1953年のアメリカのテレビの普及の感覚は僕たちの世代で言うと2012年より少し前のスマホの普及の感覚に近そうである。学生だと中学高校大学の境目で買い換えることが多いと思うので1,2年の違いで感覚は少し違うだろうが、2013年くらいには周りの過半数スマホに変えていた気がするので確かに感覚に合っている。

すなわち、スマホが普及するにつれて失われていくものを描いた小説を2012年に出版するような敏感さがこの話にはある。なんかインターネットやSNSが普及して誰でもすぐに情報を発信・受信できるようになったのでこの敏感さがあまり凄い気がしないけど、小説というかたちで発表するということを考えるとやっぱり凄いような気もする、知らんけど。


上述のような風刺は実は僕としてはどうでも良くて、街中で自分だけが風情を理解して散歩しているというポジティブな孤独感の描写が好き。風情を理解しているから孤独なのと同時にその孤独という風情を感じている状況が良すぎる。まあ現実では自分だけが風情を理解しているというのはありえなくてむしろ大多数が風情を理解していてイデアの風情を理解しない人々を自分と対比させて気持ちよくなっているだけになるのが関の山であり、そこにある孤独感やあるいはマイノリティ内での狭い共感というのは全てまやかしであり僕がわりと嫌っているものである。嫌っているというと言い過ぎではあるけど。せめてそういう偽の孤独感に身を浸すときは全てを完全に自覚しつつ行動したい。そうするとつまらない人間になって本当に孤独になります。

(続く)