2021.07.03 の日記:復活の舞

帰省中である (この日記を書き始めたとき (2021.09.18) は実家にいたのでこう書いているが、書き進めている途中で東京に戻ってきてしまった → この日記を読んでいるということはきっと私はもう長野にはいないのでしょう)。

実家にはリンゴ畑があり、家業としてリンゴを生産している。家業といっても副業としての農家が続いているだけであり、両親とも本職は別にある。そのため、小規模な畑で家族数人でやっていける程度のものである。とはいっても時期によっては人手が必要になるので、僕が帰省して手伝うこともたまにある。今回の帰省の目的はそれである。

あとマイナンバーカードを作ったのでその受け取りのための帰省でもある。未だに住民票を移していないのでこういうときにめちゃくちゃ不便である。移せ。

帰省までの2週間は感染者に限らず人間との濃厚接触回数がゼロだった (たぶん) ので感染している可能性はかなり低いが、念の為,というか家族に言われたので申し訳程度の自費PCR検査で陰性を確かめてから帰省した。本当はPCR検査を2,3回やりたかったけど安くないので1回で妥協してしまった。有意水準\(0.2\) (諸説ある) で非感染 (正確にはウィルスを保有していない) だぜ。まあ僕も含めて家族全員ワクチン打ってあるので、まあゆーていけるっしょウェイという気持ちである (誤解を招く表現)。


===ここから読む価値もないテキトーな文章===

有意水準\(0.2\)で非感染というのはかなりミスリーディングで、要するに「感染していた場合 (帰無仮説) に陰性となる可能性が\(0.2\)以下である」ということ (まあこれを読んでいる人は理解していたと思うが) であり、感染者と非感染者の人数比を考えると実際に自分が感染者である可能性はもっとずっときっと低い。陽性陰性に関わらず今の僕が感染者である可能性はせいぜい\(0.001\) (めちゃくちゃ過大評価している) であり、そこから陰性であることがわかると感染者である可能性は\(1/5\)程度になるが、可能性が\(0.001\)から\(0.0002\)になるだけであり感覚的には大差ない。まあ大差ないというのは僕の感覚であって、いくら元の値が小さくても5倍も違うなら感覚的にもめちゃくちゃ違うだろいい加減にしろという人がいてもおかしくない。というかそちらの感覚のほうが正しい気がする。

こういうのは具体例で考えると良いだろう。政府統計(リンク先:e-Stat)によると日本では2020年に137万2755人が亡くなったそうだが、そのうち結核で亡くなったのが\(1909\)人、殺人事件で亡くなったのが\(251\)人であり、それぞれ割合にして\(0.0014, 0.00018\)となる。結核で亡くなるのも殺人事件で亡くなるのも現代日本ではかなりレアであり、どちらが多いか聞かれてもなかなか即答はできない(少なくとも僕は)。その程度の差である。こちらのほうが差が大きいのでこちらで大差ないと感じたら新型コロナのほうも大差ないはずである。これは世代を限らずに去年亡くなった人全てについての話であり、「僕が今死ぬとしたら」あるいは「僕が将来死ぬときの原因」を考えるときはまた違った統計を参考にしないといけないのだが、前者については2020年の25-29歳の死亡数が2248人でありごく小さい可能性を議論するには\(n\)が小さく、後者についてはほとんど議論不可能である。まあこれは後付けの理由で、最初からきちんと戦略を立てていたわけでなく行き当たりばったりで統計を調べていたのではあるが。

試行が有限回に限られるこの現実世界では、ごく小さな確率は直感と反しやすいので数学や経済学分野でも特別な扱い方をするべきとして議論がなされている(例えばサンクトペテルブルクのパラドックス(リンク先:Wikipedia))。この現実世界で生きる以上、ごく小さな確率に気を配って生きていきたい。

話を戻すと、そもそも感染している可能性がかなり低いのである。それにも関わらず、個人の安心のために陰性を確認する必要はあるのかということが言いたかったのであるが、数字はともかく安心できれば目的は達成されるので特に問題はないのであった。

念の為書いておくと、感染している可能性がかなり低いので感染していないつもりで生活するという行動を良しとしているわけではない。良しとする個人主義的な考え方もひとつの整合的な考えではあるのだが、僕はそうではないと考える立場なのでそれだけは書いておく(←こういう補足の文章書きたくねぇ~、なぜ人は理解し合わないといけないのか......)。

ここで「個人主義的な」と書いたけどこれはたぶん正確な言葉ではなくて、言いたいこととしては「記述統計」に対する「予測統計」的な考え方であり、全体の性質を考えるやり方ではなく全体の性質から個の性質を予測するやり方である。まあこんな曖昧な比喩では何も理解できないわいい加減にしろと怒られそうだが、僕は厳密に定義された学術的な概念で僕の頭の中のフワフワした妄想を比喩する危ない人間なので放っておいてください。そのうち宗教団体を設立して東大で怪しいセミナーを開きます。


以前、感染対策が甘い人への苦言として「自分が感染しないとでも思っているのか」というものを見かけたが、それはその人個人に言及している時点で個人主義的な考えに基づく批判であり、そして個人的な考えに基づくと感染対策が甘いことは問題ではないので批判は的を外している。批判は個人主義自体を批判する全体主義的な考え方でなされるべきであり、おそらく集団全体の状態に言及できるゲーム理論的な苦言を呈するのが正しい反応である。みんなでなかよく正しい苦言を呈していこう。

===ここまで読む価値もないテキトーな文章===

「テキトーな文章」と言って正確な文章を書く責任から逃げるのはやめたほうがいい。←これはテキトーな文章ではないです。


話は戻って、帰省について。

実家へのお土産として柿の木坂キャトルのクレームサブレを買っていった。お土産というか自分が食べたいだけだったのだが。

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美味しかった。冷凍庫で冷やすとより美味しい。というか大抵のものは冷凍庫で冷やすと美味しくなる。

何かしらを冷凍庫で冷やして美味しくなかったら、有意水準\(0.1\)でそれはこの世のものではない。