2021.09.15 の日記:博論なんて 生きるジャマだぜ

(昨日の続き)

少女終末旅行の話をします。

印象に残った話の感想。


1巻 4話「日記」(アニメ第2話中盤)

少女終末旅行はチトとユーリを対比させる描写が多い。理性的で過去と未来を考えて行動するチトと、本能的で現在だけを感じて行動するユーリ。人は誰でもチトとユーリ2人両方の性質を持っていて、それらをうまく拮抗あるいは共存させながら日々を生きている。

この話では過去の情報を日記として記録して知識を蓄積させるチトと、「記憶なんて 生きるジャマだぜ」と過去の情報を文字として残すことに価値を感じないユーリがはっきり対比されている (ような気がする)。前の段落で、人は誰でもチトとユーリどちらの性質も持っていると書いたけど、正直この話についてはユーリ側の感覚がよくわかっていない。この話だけではなくて、後に何回か記憶や忘却がテーマの話があって、忘却は救済であるというようなことも書かれている。何度も書かれているテーマなので、おそらく作者にとって重要な感覚だと思うけど、僕はまだ理解できていない。10年後とかに読み返したらわかるようになってるかな。


この話ではユーリがチトの貴重な本を誤って燃やしてしまうわけだけど、自分には価値がわからないけど人が大切にしているものをダメにしてしまうという状況での、やってしまった側の気持ちを考えるのが辛すぎて、めっちゃ嫌だな~と思って見ていた。免許更新の講習ビデオを見ているときの気持ち (書いてて思ったけどこの喩えダメだわ。他人の命の価値がわからないと言っているようなものなので)。

その後に、ユーリがチトの日記にこっそり謝罪の落書きを残すわけだけど、謝罪としてその行動を選択するのマジかよという気持ちである。ガチ謝罪って難しいので口頭ではなく文章でやりたいという気持ちはわかるけど、本の大切さがよくわかっていなくてこういう状況になっているのに (まあ故意ではないけど)、価値をよくわかっていない日記というやつに勝手に落書きをして謝罪とするの危うすぎないか。この描写、作者はどういうつもりで書いたのだろうか。いい話として書いたのかユーリをヤバい奴として書いたのか。アニメだと謝罪の落書きを見たチトが笑顔を見せたのでいい話として描いていることがわかるけど、原作だとチトの表情が見えないので感情がよくわからない。(そもそも、原作だとチトが笑顔になる描写は片手で数えるくらいしかない)

まあこれは僕の認識がかなり歪んでいるせいで、正常に判断できていないような気がする。僕は人の寛容さを信じていないので、いつも人の地雷を踏まないがビクビクしながら暮らしている。人の拘りは多種多様なので、人がどこに怒りや不快感を感じるか全く予想できない。でもたぶん、実際にはマトモな人間は僕が思っているよりもずっとはるかに寛容である。予想できない独特の拘りを持っている場合も、人が予想できない故に地雷を踏まれる頻度が高いので、それはそういうものとして不適切な言動に対する寛容さを獲得している可能性が高い。地雷を踏まないことよりも、地雷を踏むつもりで伝えたいように伝えることのほうがよりマトモな行動なのかもしれない。なんか青春アニメみたいな結論になってしまった (傷つく/傷つけることを恐れていたら何もできないんだ!みたいなヤツ)。

まあ、地雷原 (と思いこんでいる場所) から移動できずに座り込んでただ死を待つのもそれはそれでいい生き方だと思う (マトモではないかもしれないけど)。僕はそうやってゆるやかに死んでいく。

サムネ用


(続く、続く)